ミウラの成功により、世界にその名を轟かせたランボルギーニの創始者、フェルッチオ・ランボルギーニはさらなる性能向上によって、フェラーリを駆逐するべく新型車の開発を命じました。ミウラの4リッター横置きV12エンジンは、設計者パオロ・スタンツァーニによって、フェラーリを凌駕するべく5リッターV12となり、横置きのバランス、操作性、整備性の短所の克服、ギアリングのダイレクト感、ホイールベースの短縮を目的に、通常とは逆向きにマウントされたミッドシップとなります。このシャシーに天才デザイナーマルチェロ・ガンディーニのデザインした、究極のウェッジシェイプボディを稼装したプロトタイプLP500は、1971年のジュネーヴ・モーターショーで発表しました。その衝撃は、プロトタイプを目にしたフェラーリが、すぐさま新型車の開発に乗り出すほどのものでした。

しかし、プロトタイプはオーバーヒートや剛性不足など数々の問題を露呈し、またボリビア動乱に端を発するランボルギーニの経営不振の影響を受けことで、1974年になってようやく既存の4リッターエンジンで販売を開始しました。日本で空前の「スーパーカーブーム」が起こるのは、その3年後です。カウンタックはフェラーリBBと並び、ブームの象徴となりました。

日本の人気とは裏腹に、危機的な経営状態の中で熱狂的な信奉者によってその生命を長らえていたカウンタックも、1982年に5リッターエンジンを得て以降、4バルブ化、インジェクション化、アニバーサリーモデルの発表など、改良に伴って販売台数は好調に転じます。

クライスラーのコントロール下となり、潤沢な資金によって後継モデル「ディアブロ」の生産に目処が立ち、数奇な運命に翻弄されたカウンタックはついに生産を終了しますが、最終的に1990年7月まで実に16年にる長寿モデルとなりました。

ちなみに、現在では珍しい「ショートホイールベース設計」は、タイヤ性能が充分ではなかった70年代の一種の流行であり、特徴的なウェッジシェイプは、当時のガンディーニのデザインスタディに多く見られるものです。

「Countach」とは、イタリア・ピエモンテ地方の方言で「驚いた」という意味の感嘆詞(日本的に言えば「ありゃ~、たまげた」でしょうか)であり、開発が進められていたベルトーネの工場で、プロトタイプを目にしたヌッチオ・ベルトーネ(従業員という説もあり)が口々に発した言葉が由来であるということです。

初めてカウンタックのレプリカを手がけたのは、カナダのRod Ladret 率いる Ladret Design Studio と言われています。石膏型から起こした雌型を用いてFRP製のアウタースキンを成形し、パイプフレームとアメリカンV8の構成として、1984年から販売を開始、141台を販売しました。Ladret は、この雌型も販売したことによって、数千台のレプリカが製造されたといわれています。Ladretは、1993年には、他のプロジェクトに注力するために、カウンタックレプリカの製造を終了しました。また、1985年にはGary Thompson と Pete Jackson は、Manchester car hire company からカウンタックの実車を借用し、雌型を成形しました。この雌型は、Paul Lawrenson 率いる Prova Cars に渡り、Prova廃業後は Phil Cheetham 率いる Mirage replicas、 Brightwheel replicas、 Alan Booth が率いた Sienna Carsといったイギリスをベースとするレプリカメーカーを生みだすこととなりました。また、Provaが所有した雌型はニュージーランドのCountess MouldingsやアメリカのEuroworks (同社販売の車名は"Mirage")に渡ったとされています。